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第3部: 世界に広く知られる

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韩古尔焕然一新

日帝強占期時代に日本は韓国民族をより強力に支配しようとし、韓国語とハングルの使用を禁止するに至りました。ですが、ハングルを守り研究しようとする学者たちの熱望はより強くなりました。

特に、この時期には周時経(チュ・シギョン)を中心とした「国文研究所」の研究活動を受け継いだ彼の弟子たちが、「朝鮮語研究会」を通して韓国語とハングルを活発に研究しました。彼らはハングル自体に対する多様な研究物を発表する一方、ハングルをより簡単に教えられる教材を作り、教育することにも力を注ぎました。また、「ハングル綴字法統一案」を発表し、ハングル表記の標準案を発表しました。このような活動の結果として、ハングルは文字としての体系を備えるようになりました。

1945年の独立以降、ハングルの研究はより活気を帯びました。主に韓国語をハングルでのみ書くようにしようという動きと共に、ハングルをより多くの人に教えようと努力する方向に現われました。このようなハングルの研究と教育活動は、ハングルが単純な意志疎通の手段を越えて、韓国民族の文化と精神を守る根と思われてきたことを示しています。

1) ハングルの研究

1800年代、宣教活動のために韓国語を学ばなければならなかった外国人宣教師や外交官によってハングルの研究が部分的に行われました。ハングルに対する本格的な研究は20世紀以降から行なわれますが、特に「国文研究所」が設立され、体系的な枠を備えて組織的にハングルを研究するようになりました。

この時期には国語の文法書を記述するための最も基礎的な要素として、主に文字と発音という面からハングルを研究しました。『国文正理』、『国語文典音学』、『言葉の音』のような研究書において、ハングルの1つの文字が読まれる時の発音と、単語または文章の中で他の文字と組み合わされて読まれる時の発音を詳しく説明した内容を確認することができます。

한불자전

韓仏字典

2) ハングル表記の標準化

1894年、甲午改革によりハングルが「国文」という名で朝鮮の公式的な文字に採択されました。従って、それ以前は特別な基準もなく自由に使われてきたハングル表記に、統一された基準が必要になりました。

1907年、教育を担当する官庁である学部に設けられた「国文研究所」が10項目の「国文研究議定案」を作りましたが、1910年に日本帝国に国権を奪われたため適用されませんでした。その後、日本帝国の主導で大小の綴字法の議論が行なわれましたが、特別な成果を上げることはできませんでした。

1930年代から「朝鮮語学会」の主導でハングル綴字法が議論され始め、「ハングル綴字法統一案」、「外来語表記法統一案」などが発表されました。今、私たちが表記基準としている「ハングル綴字法」と「外来語表記法」は、この時に作られた内容を修正し補完したものです。

3) ハングルの教育

ハングルが国文として認められ、1895年に『教育立国詔書』が発表されながら、体系的なハングル教育が始まりました。当時の教育官庁であった学部が韓国初の国語教科書である『国民小学読本』を発行して以来、数多くのハングル教材が機関や民間出版会社により世の中に発行されました。

その後、日本の侵略が本格化しながら、1911年に公布された「朝鮮教育令」に従い、「国語」という名前の代わりに「朝鮮語」と言うようになりましたが、これはハングルの教材の名前にも反映されました。しかし、このようなハングルの弾圧の中でも、ハングルの教育活動や教材の出版は続きました。

1945年に独立を迎えた後にも、ハングル教育とハングルの使用を叫ぶ運動は続きました。「朝鮮語学会」を始めとするいくつかの社会団体は、日本語と日本の文字の残滓を消し、韓国語とハングルを取り戻すための努力を怠りませんでした。また、多様なハングル教材を普及し、ハングルを学ぶことができる空間を設けることにも力を注ぎました。

언문반절표

諺文反切表

사민필지

士民必知

소학독본

小学読本